昭和42年04月10日 朝の御理解



 行き届いた信心と云う事を云われます。行き届いた信心をさせて頂いて神様の方からも行き届いたおかげを頂ける様にしなければいけません。痒い所に手が届く様にと、本当に思うてもいない様な所にまで、神様が気を配って下さっておかげ下さる。そう云うおかげは皆が願うんですけれども神様の前に、さぞ神様の痒いと思うておいでられる所、神様の方に痒い所に手が届く様な行き届いた信心をさして頂くものが少ない。
 ところがいつも神様にはがゆい思いをさせておる。あれだけ信心しあれだけ教えを頂いて、そこんところがまだ判らんのかと、見かけばかり、ね、目に見えるところだけは成る程行き届いた様に見えるけれど、一歩中に踏み込んで見ると、ね、目に見えないからと云うて、人が気が付かないからと云うてそう云う汚い心で、そう云う見苦しい事でどうしておかげが受けられるものかと。
 神様がはがゆい思いをなさるであろうと、と云う様なところに、私取り組んでいく事が行き届いた信心だと思う。行き届いた信心をお掃除でも行き届いたお掃除と云うなら目に見えるところだけのお掃除ではなくて、目に見えないところ人が気がつかない様なところ、云うなら隅々まできれいにしてあって、行き届いたお掃除だと云う事が云えましょう。信心もそうです。ね。
 神様には信心も出来んのに云うなら、神様から蓮根喰うて下さる様なおかげを願う、そんなら神様の願いにもです、神様の思いにもこちらが今神様が何を求めておいでられるかというところを分らして貰うて、こちらが蓮根喰う様ないわば信心さして貰うて行く事が、私は行き届いた信心だと思う。神様が何を求めておいでられる事が分っておっても知らん顔をしとる。そんならやはり神様だって同じ事。
 あれがあれを求めておるけれども、やっぱり神様が知らん顔しておられるよ様な、いうならばものではなかろうかと私は思う。「実意丁寧神信心」とは私は行き届く事だと思う。ね、行き届いた信心をさせて貰わなければならん。ね、もうそれ位でよかよかと、もうそれでよかがと云う様な事ではなくて、どこ迄もどこ迄も私は行き届いていく。それでもです、人間生身を持っておる事であり、ね、
 人間凡夫の事であり人間凡夫の事で相分りませずというと同時に、人間生身を持っておりますから、ね、どうにも出来ない問題が幾らも御座いますから、ここんところはこうする事が本当だと思うても、こう出来ない様な所をです平身低頭お詫びさして頂くという様な信心。お徳を受けられたという、私共知っておる限りの先輩と云うか、先生方と云うか、ね、そう云う方はその席からの御信心など承らせて頂きますとですね、
 表よりもむしろ裏、目に見えるところよりも、目に見えないところ、人が知っておるところよりも知らないところ、そう云うところをです、大事にしておいでられた様にあります。皆さんどうでしょうか目に見えないところ黙っていれば誰も知らん様なところ、表よりも裏、ね、外観よりも内部の方をです、本気で綺麗にしようと云う様な、私はあり方にお互いが本気でならなければですね、おかげを受けられません。
 信心生活とは神様が見ておいでの生活、ね、神様が知っておいでの生活、云わば神様だけがご承知の世界にです、真実真心を尽くして行くという生活。神様だけがご承知の世界にいわゆる生き抜かして貰う。神様だけがご承知の世界にです、愈々真心を込めて行こうという生活を、私は本当の信心生活だと思う。おかしい、あの人はあれだけ行き届いた様な信心生活しよる。毎日お参りもしよる。
 中々行き届いてござるのにどうしておかげを受けられんのだろうかという人がある。
 ですから、結局あなた自身の内容、あなた自身の内部というものを、よくよく見てみなさいと、こう言うより他にないのですけれど。ほんにそこんところを気付かして貰うてですね、表には木綿の着物を着とっても、裏には羽二重の裏を付けておると云う様な、信心をさして貰わなければです。
 私はほんとに行き届いたおかげというかね、神様がこの様なところにまで、この様にお働き下さると云う様なおかげは受けられないと思う。そういう信心に精進さして頂く事なんですけれども中々、私共には出来ませんからせめて今日は皆さん、黙ってれば誰も知らん事表より裏、真中よりも隅々と云う様なところをです、本気に心がけさして頂いて、いうなら、神様だけがご承知の世界に一つ。
 本気で真心を込めさして頂き、真心を尽くさして頂こう。そう云う今日は一日でありたいと、私自身、只今のご祈念の時に一言思わして頂いたのでございますが。そして、はあ、ほんとに成る程、こういう風に自分の内容というものをです、ね、黙ってこっそり、誰に知って貰う事はいらん、神様だけが見ておられるのだからという様な気持ちで、生活を出来る事がです。
 こんなにも有り難いものであるかという事を、体験さして頂いて、愈々行き届いた信心といういわゆる、実意丁寧神信心という事をです、身に付けて行きたいなあと、今日はしみじみ思わして頂きました。信心生活はそれなんです。拝む事ばっかりじゃない、参る事だけじゃない。自分自身がです。本当に、表よも裏、という様にです。
 そこんところを大事にして行くところのおかげ、それは馬鹿らしい様にもありますよね。誰も知らんのですから。誰も見てくれんのですから。けれども、神様が見ておいでられるのですから。ね、神様が見ておって下さるのですから。そこんところに、ひとつ思いを、真心を込めさして頂いておかげを頂きたいと思うですね。
   どうぞ。